フィルム、卒業します。 [ひとこと]
僕はライカが好きだ。ライカは素晴らしく使いやすいカメラだし、使っていて気持よくなる操作感。レンズも素晴らしくシャープ、適度なコントラスト。
でも、ライカを使うと、ライカを使うことの方に意識が行き過ぎてしまって、結果としての写真が伴っていないように思えてきた。
デジカメを使う場合、カメラには意識が行かない。肩の力が抜けて、フットワーク軽く撮影出来てるのではないか?カメラが意識されないことで、外界の刺激を探すことに集中できてるのではないか?結果としても、デジタルで撮影した写真のほうが先生からも評価されたし、周りからの反応も良かったから、余計にそう思えてきた。
フィルム対デジカメの画質議論もあるけれど、結局は作品として成立する写真をしっかりと作れる道具であれば何でもよいのだ(ま、画質がいいほうがいいけど)。しかも、フィルム現像やらスキャンやら手間のかかる工程を経なくては行けないということも考慮すれば、今の僕には必然的にデジカメなのだ。
でも、ライカを使うと、ライカを使うことの方に意識が行き過ぎてしまって、結果としての写真が伴っていないように思えてきた。
デジカメを使う場合、カメラには意識が行かない。肩の力が抜けて、フットワーク軽く撮影出来てるのではないか?カメラが意識されないことで、外界の刺激を探すことに集中できてるのではないか?結果としても、デジタルで撮影した写真のほうが先生からも評価されたし、周りからの反応も良かったから、余計にそう思えてきた。
フィルム対デジカメの画質議論もあるけれど、結局は作品として成立する写真をしっかりと作れる道具であれば何でもよいのだ(ま、画質がいいほうがいいけど)。しかも、フィルム現像やらスキャンやら手間のかかる工程を経なくては行けないということも考慮すれば、今の僕には必然的にデジカメなのだ。
街を切り取るスナップショット [PHOTO]
[OLYMPUS PEN E-P5] スナップショット [PHOTO]
写真道とは・・・ [ひとこと]
「死ぬことと見つけたり・・・」ではない。
すくなくとも、写真の道を難しくしているのは、写真というものがカメラという機械を媒介せねばならぬものであり、また、その機械を使えば指先の動きだけで、だれでもが簡単に撮れてしまうということだ。
だれもが簡単に写真を撮れなかった時代は、その技能が職業として確固たる地位を築いたし、その写真は固有の眼差しとして捉えることができた。
しかし、現代は誰もが同じようなものを見、同じように写真をとり、多くの人の目の前に晒している。
その中で「作品」として他の画像と異なる存在を作り上げていくことは、容易なことではない。
しかも、その「作品」を作ろうとしている同じ想いを持った同志の中で、個人としての独特の眼差しを写真に焼き落とすなんて、相当なもんである。
だからして、同じようなプロセスで、同じようなものを捕らえていては、どうしようもないのだ。
ただ、歩き続けて、新しいものとの出会いを切り撮るにしても、それは誰かによってすでに切り取られ、消費されていることが多々あるのだ。
現代における写真は新たな発見ではなく、既存の構造の中からの再発見と再構築なのだ。
いかに現代的なものの中から写真表現として成立していくものを導き出せるか。
廃墟や廃村、過疎地、地方ではなく、都市の中から再発見をしていくしかないのだ。
もちろん、廃墟、廃村、過疎地、地方を撮ったものがダメというわけではない。
そこから作品を紡ぎだすには、そこで生活するくらいでなくては、作品は生まれてこないだろう。
僕は都市生活者だ。都市生活者である以上、都市の中から再発見をし、再構築していくしかないということだ。
そして、都市には商業主義的表現が溢れている。これに惑わさらないで再発見することも、相当の苦労を伴うのだろう。
すくなくとも、写真の道を難しくしているのは、写真というものがカメラという機械を媒介せねばならぬものであり、また、その機械を使えば指先の動きだけで、だれでもが簡単に撮れてしまうということだ。
だれもが簡単に写真を撮れなかった時代は、その技能が職業として確固たる地位を築いたし、その写真は固有の眼差しとして捉えることができた。
しかし、現代は誰もが同じようなものを見、同じように写真をとり、多くの人の目の前に晒している。
その中で「作品」として他の画像と異なる存在を作り上げていくことは、容易なことではない。
しかも、その「作品」を作ろうとしている同じ想いを持った同志の中で、個人としての独特の眼差しを写真に焼き落とすなんて、相当なもんである。
だからして、同じようなプロセスで、同じようなものを捕らえていては、どうしようもないのだ。
ただ、歩き続けて、新しいものとの出会いを切り撮るにしても、それは誰かによってすでに切り取られ、消費されていることが多々あるのだ。
現代における写真は新たな発見ではなく、既存の構造の中からの再発見と再構築なのだ。
いかに現代的なものの中から写真表現として成立していくものを導き出せるか。
廃墟や廃村、過疎地、地方ではなく、都市の中から再発見をしていくしかないのだ。
もちろん、廃墟、廃村、過疎地、地方を撮ったものがダメというわけではない。
そこから作品を紡ぎだすには、そこで生活するくらいでなくては、作品は生まれてこないだろう。
僕は都市生活者だ。都市生活者である以上、都市の中から再発見をし、再構築していくしかないということだ。
そして、都市には商業主義的表現が溢れている。これに惑わさらないで再発見することも、相当の苦労を伴うのだろう。
ボロ屋からの脱出 [ひとこと]
ボロ屋から逃げ出したい。
別にボロ屋に住んでるわけではない。
いくら写真を撮りにでかけても、レンズをボロ屋に向けてしまうのだ。
ボロ屋ばかり撮ってしまう。
いい加減、ボロ屋を撮るのはうまくなってきた。
もう、1年以上ボロ屋ばかり撮っていると思う。
さすがに飽きてきた。
ボロい車も。
ボロいものばかりに目が行く。
もう、ボロやゴミはいいよ。
もうこの状態から早く抜け出したい。
自分自身の固有の眼で見た光景。
これを写真に焼き付けたい。
ボロい家なんて、同じ教室にかよっている人だったら、必ず眼を向ける。
同じ目線でものを見てたら、いつまでたっても写真表現を突き詰めては行けないのだ。
あくまで表現なのだ。
眼に写った光景や瞬間をカメラという媒介でこの世に表現するのだ。
そして、プリントでより高度な表現に持っていくのだ。
ああ、いつになったら、写真表現できるのだろう。
ああん。いやになっちゃう。
別にボロ屋に住んでるわけではない。
いくら写真を撮りにでかけても、レンズをボロ屋に向けてしまうのだ。
ボロ屋ばかり撮ってしまう。
いい加減、ボロ屋を撮るのはうまくなってきた。
もう、1年以上ボロ屋ばかり撮っていると思う。
さすがに飽きてきた。
ボロい車も。
ボロいものばかりに目が行く。
もう、ボロやゴミはいいよ。
もうこの状態から早く抜け出したい。
自分自身の固有の眼で見た光景。
これを写真に焼き付けたい。
ボロい家なんて、同じ教室にかよっている人だったら、必ず眼を向ける。
同じ目線でものを見てたら、いつまでたっても写真表現を突き詰めては行けないのだ。
あくまで表現なのだ。
眼に写った光景や瞬間をカメラという媒介でこの世に表現するのだ。
そして、プリントでより高度な表現に持っていくのだ。
ああ、いつになったら、写真表現できるのだろう。
ああん。いやになっちゃう。
このブログが最初のブログではなかった・・・
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物欲に無駄に悩まされた
ハッピーフォトアンバサダーに認定されました
10月は落ちる月なのかな?
ハッピーフォトアンバサダー養成講座 第二回に行って来た。
ハッピーフォトアンバサダーになる予定
じつはあまり出撃できていない・・・
しばらく会社を休んでる